魔術と呪術と占術

 占術師は魔術師でも呪術師でもない。

 占いの話を始める前に、表記の3つの術について語ってみようと思う。

 魔術とは、字義としては、「人を惑わせる術」のことである。現在は英語magic等の訳語として用いられる。欧語の「魔術」を表す語彙はギリシャ語のマギケーに由来し、その原義は「マゴスの術」である。マゴスとは古代メディア王国の神官であり、これをラテン語ではマグスと称する。マグスの複数形がマギである。マギは今日では「魔法使い」と訳されることが多いが、伝統的には「博士」「賢者」の訳が当てられる。新約聖書、マタイによる福音書に登場する東方三博士が有名であろうか。ちなみに、三博士は占星術師である。

 さて、西洋における魔術とは、古代以来の、超自然的な力を統御するための理論と実践の総称である。魔術的な世界観は、人間より上位の概念との通信可能性、人間と宇宙の照応、世界の階層構造などを前提とする。このような世界観は前近代にあっては普遍的なものであり、また、合理知たる科学の栄える現代にあっても未だに形を変えて残存している。

 科学に追い越されるまでの間、つまり知識と技術が万人に開かれるまでの間、魔術とは一部の知識人技術者に独占された最先端の知識技術であった。その体系は自然科学によって大部分が否定されたが、中にはいまだ有効なものも存在する。魔術と呼ぶには若干の語弊があるが、陰陽五行論に立脚する漢方などはその例である。他にも、魔術の基礎たる自己、他者の内面の統御や変革なども充分に有効である。

 魔術には「白魔術」「黒魔術」「魔女術」「妖術」などの分類区別が為されることがある。これらの区分は特定の宗教から見たイデオロギーの産物であり、大した意味はない。

 歴史を紐解けば判るとおり、魔術の衰退は別の魔術の隆盛と並行する。そもそも魔術の定義が「人を惑わす術」なのである。他の何物かが人を惑わし始めない限り、既存の魔術は人々を惑わし続ける。脱魔術化が近代の理念であったが、それは厳密には未だ完了していない。魔術の代替物が与えられなかったが故に、人々は未だ魔術から脱し切れていない。近代の産物たる科学は脱魔術を謳った為に、魔術とは明確に別物となった。故に科学は魔術の代わりには成り得なかった。人々は科学を学びながらも迷信を捨てきれないでいるのである。どころか、近代以降はとりわけ芸術の見地から世界の再魔術化が繰り返し図られてきた。かくのごとく、未だに魔法は死んでいない。

 続いて、呪術について語ろうと思う。呪術って言いにくいよね。

 呪術とは、術者の意志に拠り任意の現象を引き起こそうとする行為である。英語ではmagic。要するに魔術のことである。学問の世界では、オカルティズムや思想史の分野では主として「魔術」を用い、宗教学や人類学では「呪術」と称するらしい。強いて言うならば、魔術はパフォーマンス的な側面が強く、呪術は実務寄りである。

 呪術は、人間よりも上位の概念――例えば神や精霊、悪魔に天使など――の存在を前提とし、それらの助けを借りて種々の現象を引き起こす、ということになっている。つまり、呪術とは信仰を伴う技術なのである。J.G.フレーザーは、この呪術の信仰から宗教が発展すると主張した。実益を与えてくれる神を崇め奉る、ということであろう。これに対し、E.デュルケムは、呪術は宗教的信仰の特殊な形態であり、呪術に先んじて宗教が存在していたと唱えた。しかしながら、呪術と宗教の後先を歴史的に証立てることは極めて困難である。そもそも両者の境界は曖昧である。文化によっては境界が異なり、それどころか混在している場合もある。呪術と宗教に後先は無く、並立していたと考えるのが無難である。そもそも、どちらかがどちらかの母体となった、という証拠もないのである。なお、呪術と宗教の差異としては、呪術が神霊の類を使役強制するのに対し、宗教はそれらに懇願する態度をとる、という点が挙げられる。

 さて、前出のフレーザーは、著書『金枝篇』に於いて、呪術を大きく二つに分類した。一つは類感呪術、もう一つは感染呪術と呼ばれる。

 類感呪術とは類似の原理に基づくもの、つまり、求める結果を模倣することによりその結果を引き起こそうとするものである。例えば雨乞いにおける呼び水や、藁人形に釘を打つ行為などがそれに当たる。

 感染呪術とは、対象に接していたもの、属していたものに行為を与え、それにより対象に影響を及ぼそうというものである。例えば藁人形に対象の爪や髪を入れる、写真に釘を打つなどの行為がこれに当たる。藁人形の例を見ればわかるとおり、類感呪術と感染呪術はしばしば併用される。

 ところで、一般的に呪術と言うと、人を害する目的で行われる術式を指すことが多いように感じられる。これは呪詛と呼ばれる行為であり、呪術の一部である。

 呪詛を英語ではanathemiseといい、これの語源ギリシャ語の動詞anatithemi(上に置く)に由来するanathemaであり、原義は「上に置かれたもの」である。旧約聖書ではcherem(別つ、離す)がこれにあたり、本来の意味は「神への捧げもの」である。新約聖書以降は本来の意味は失われ、共同体からの排除、殊に教会からの破門、異端への強い呪いを意味するようになった。

 日本語では呪も詛も「のろう」と読む。呪うという語の語源は祝詞と同じく「宣る」である。宣るに反復・継続の助動詞「ふ」をつけて「宣ろふ」。言霊の力は世界に干渉し得る、というのがこの国の古い信仰の形である。良い結果を求めて言葉(祝詞)を発する行為を祝う、言祝ぐといい、悪い結果を与えようとして言葉(呪文)を発することを呪う、詛うという。言霊の幸う本邦に於いては、呪詛も祝福も基本は言葉によって行われるのである。この信仰は、はっきりとものを言わない、という国民性として未だに残存しているのであるが、それはまた別の話である。

 日本において呪い以外の呪術はお呪い(おまじない)と呼ばれる事が多い。お呪いとはつまり簡易化された魔術である。簡易化されているが故にほとんどは児戯に等しいが、魔術と同様に、術者本人や術を掛けられた者の意識に影響を与える効果のあるものも存在する。大きな影響が出る事はそう無いが、多感な時期の少年少女、感受性の強い者、不安を抱えて不安定になっている者などには思いがけない効果の出ることがままある。

 良い効果を与えるお呪いについては、没入しすぎなければさほど問題は無い。が、呪いの方は万が一効果が出ると厄介である。その為数々の呪的な護身法が編み出されて来たわけだが、複雑な手続きを踏まなくとも簡単に呪いその他の術式の影響を防ぐ方法がある。即ち、見ない、聞かない、意識しないである。呪いは所詮意識に作用する技術に過ぎないのだから、意識の外に於いてしまえば如何なる影響も及ぼしえないのである。

 さて、やっと占術の話である。ここまで読んでくれている奇特な人はいるのだろうか。

 我がクラブでは占術を占と術に分けて考える。さしあたり、占つまり占いについて語ろう。

 占いとは自然現象又は人為的に得た徴によって吉凶を判断したり、秘事や未来を察知しようとする行為である。世界中のあらゆる民族にみられ、もともとは宗教的行為である。

 そもそも占いは、ある現象と別の現象との間に何らかの因果関係がある、という想定に立っており、後の自然科学的思考の発生母体になったとも考えられる。そういう意味では占いは魔術と科学の間に立っており、逆に言えば魔術にも科学にも成れなかったのである。

 さて、占いには前述の通り自然的な占いと人為的な占いに大別される。前者は自然界に現れる「前兆」、つまり鳥獣の行動、植物、天体の運行や気象現象の変化、又は心的な現象、つまり夢や幻覚、憑依現象などによって占う。後者はタロットや筮竹、数珠やサイコロ、杖等の占具を用い、亀甲、獣骨、投物、投液、内臓、勝負、籤などの変化や結果を観察することによって「予兆」を得、それによって占う。

 

 さらに言えば、占いは卜、命、相の三種に分類される。

 卜とは、主に行為の吉凶を判断しようとするもので、易やタロットなどがこれに当たる。具体的な行為の成否を判定するものであるから、質問はイエス・ノークエスチョンであることが望ましい。例えば、易で卦を立てるときに「AとBの相性は如何」という占的は占いにくい。こういう時は「AとBの交際の成り行きは吉か凶か」と尋ねるべきである。

 命とは、生まれ持った運を見ようと言うものである。占星術、四柱推命などはこれに当たる。生年月日時、生誕地等が必要になる。主に生まれた時の天体の配置から人生全体の運勢を見ようとするものであり、魔術的世界観のマクロコスモス(宇宙)とミクロコスモス(人間)の照応を前提とする占いである。性格判断、相性判断等に適する。

 相とは、現状を見る占いである。手相、人相、家相などがこれである。今の状況を把握してそこから将来に対する対策を立てようと言うのがこの占いである。手相などは本人の状態を反映している、という前提に立っている。本人の状態が原因、手相等が結果である。

 

 この卜、命、相を総称して占と呼ぶ。さらに術の山、医を加えて占術五術と称する。

 山とは、精神修養、肉体鍛錬、食餌法などの日々の養生、物理的、呪的な護身法など、つまり事前に災厄を避ける護身の術である。

 医とは、本来は中医学を指す言葉であるが、我がクラブでは概念を拡大し、実際に起こった問題に対処する術を医と呼んでいる。基礎的な応急処置(医療行為は免許を持った専門家に任せましょう)、解呪、除祓などがこれである。問題の原因を取り除き、或いは二次災害を防止する技術が医である。

 

 これら占術は、魔術を基盤として発達した技術である。したがって、これは自然科学ではあり得ない。「占星術は統計学」などと言う輩もいるようであるが、実際には統計学的手法が使われているわけではない。あれは「経験則」と呼ばれるものである。繰り返すが、占いは科学的思考の母体であるかもしれないが、科学では断じて無い。科学のフリをしている占いには注意した方が良い。

 では占いは魔術なのかと言うと、これも違う。魔術的世界観に立脚してはいるが、占術は魔術ではない。魔術は世界を統御しようとする技術理論であるが、占術は読みとり受け流す技術である。魔術が世界の方を変化させる技術であるのに対し、占術は世界に対する人間の方を上手く立ち回らせる技術である。

 さて、占術という行為は、人の意識に多少なりとも影響を与える。例えば、「予言の自己成就」と呼ばれる現象が知られている。これは予言を受けた者が無意識に(場合によっては意識的に)与えられた予言に沿った行動を取ってしまう、というものである。例として、或る占い師が「○○銀行の経営がピンチ」と占ったとしよう。仮にこの予言を多くの人間が信用したとしたら、その銀行からは多額の預金が引き上げられる事であろう。所謂取り付け騒ぎである。本当にその銀行は窮地に追い込まれかねない。逆もしかり。「交通事故に気をつけろ」と占い師に告げられれば、多少は道路交通に気を使い、場合によってはそれによって交通事故を回避することもありえよう。観測と言う行為はそれ自体が事象に対する干渉なのである。

 かように、占いと言う行為は、人の意識を通じて現実に影響する可能性が多かれ少なかれあり得るのである。そういう意味で、占術と呪術は似ている。占術師は未来を告げ、結果として呪術的効果を齎してしまうのに対し、呪術師は各々の理論に則って術を行っている。この術は一定の目的を持って行われる。したがって、呪術師の齎す効果は呪術師自身によって制御が可能である。対して、占い師はただ読みとった結果を告げるだけでは、つまり占術理論に従って仕事をするだけでは、与える影響を制御しきれない場合がある。故に、占い師には「言葉を選ぶ」というスキルも要求される。これが呪術師と占術師の相違である。呪術師は事象に対する主体であり、占術師は事象に対する客体なのであるが、純粋な客体など存在しないのである。しかし、客体で無ければ観測は行い得ない。であるから、占術師には主体であることを自覚した客体としての立場が要求される。占術師はこの事を努々忘れてはならない。このことを忘れると、取り返しのつかない結果を齎しかねない。くどいようだが、占術部門の後輩諸君には充分気をつけてほしいと思う。

 以上、魔術と呪術と占術について大雑把に述べた。